二人の三四郎と聖書~プロローグに代えて

なぜ「サンシロウ」?

はじめまして。サンシロウと申します。キリスト教徒(クリスチャン)です。子どものころから教会に通っていました。現在は、特に通っている教会はありませんが、自分がキリスト教徒であるという自覚は持っています。

キリスト教について、よく知られているとは言えない日本において、少しでも多くの人に聖書やイエス・キリストのことを知ってもらいたいと思ってブログを立ち上げました。

必ずしも、このブログを読む人がクリスチャンになってほしいと思っているわけでもありません。ですが、聖書は知識として知っているだけでも面白い世界だと思うし、その知識が、人生の何かの時に力になることもあると思うのです。

なぜ「サンシロウ」?

ところで、なぜ聖書・キリスト教ブログにサンシロウ――三四郎などというハンドルネームをつけたのか?

深い意味はありません(笑)。私の好きな小説の主人公の名前をそのまま付けたというくらいのことです。

三四郎という名の主人公が出てくる小説といえば、夏目漱石『三四郎』のことだと多くの方がピンとくることでしょう。私にとって、数ある漱石文学の中でも特に好きな作品です。

ただ、この三四郎。キリスト教と何も関係がないというわけでもないのです。

夏目漱石『三四郎』と聖書

漱石ファンならずとも、ちょっと文学好きな方なら『三四郎』に、キーワードのように出てくる「迷える羊」(ストレイ・シープ)という言葉はご存じなのでは。

これは主人公・三四郎が心惹かれている女性・美禰子が口にした言葉です。

「迷子」女は三四郎を見たままでこの一言を繰り返した。三四郎は答えなかった。「迷子の英訳を知っていらして?」三四郎は知るとも、知らぬとも言い得ぬほどに、この問いを予期していなかった。

「教えてあげましょうか」

「ええ」

「迷える羊(ストレイ・シープ)――わかって?」

(漢字、かな使いは現代表記に改めました)

この「迷える羊」という言葉について『漱石全集』(岩波書店)第四巻の語句解説には、聖書の中にある次の言葉から来ているものだと説明しています。

「あなた方はどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残して、迷い出た一匹を探しに行かないだろうか。よく言っておくが、もし、その一匹を見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。そのように、これらの小さな者が一人でも失われることは、天におられるあなた方の父の御心ではない」

『聖書』(聖書協会共同訳/日本聖書協会発行)「マタイによる福音書」18章12ー14説(「新約聖書」34ページ)

これはイエス・キリストの言葉として伝えられるものですが、これは人間を「羊」、そして神、ないしイエス・キリストを、迷いでた羊を探し求める「羊飼い」にたとえた話です。

『三四郎』が収められる『漱石全集』第四巻(岩波書店)

この小説の中での「迷える羊」が、何をたとえたものかという問題に深入りすると話が長くなるので、興味をお持ちの方は、ぜひ『三四郎』を読んでいただきたいと思いますが、物語の最後の方で、三四郎の気持ちを知りながら、他の男性と婚約した美禰子が、三四郎に、

われは我が愆(とが)を知る。我が罪は常に我が前にあり。

これは「文語訳」と言われる、明治期に日本語に翻訳された聖書(旧約聖書)の「詩篇」と言われる部分の文章ですが、現代語訳(口語訳/日本聖書協会発行)では、

わたしは自分のとがを知っています。
わたしの罪はいつもわたしの前にあります。

という言葉になっています。

聖書(日本聖書協会発行・口語訳)

もう一人の『三四郎』

さて、人によっては「三四郎」という名を聞くと、別の人物を思い浮かべるかも知れません。そして、その人物も小説の主人公です。

それは『姿三四郎』。富田常雄の柔道小説の主人公です。

実は私にとって『姿三四郎』は、漱石『三四郎』に劣らず好きな作品なのです。

明治期の、柔道草創期を描いた作品で、主人公・姿三四郎(「姿」は名字)のモデルは実在した柔道家・西郷四郎。

いくたびか映画、テレビドラマ化され、黒澤明監督による作品もあります。

その三四郎が、他流派の柔術家、ボクサー、空手家等と死闘を繰り広げる小説で、著者・富田常雄自身も柔道五段(上述の西郷史郎と並んで「講道館四天王」の一人と言われた富田常次郎の息子でもあります)であるため、格闘シーンの描写は迫力があり、文字通り血湧き肉躍る(←ちょっと古い言い回しで恐縮)痛快な小説です。

その三四郎と聖書と何の関係があるか?

物語の途中、この小説のヒロインと言うべき、三四郎に思いを寄せる乙美という女性がキリスト教に入信したことが語られます。

ところが、その乙美が重い病に伏せり、もはや助かる見込みがないというところまで悪化してしまいます。

そして、ラスト近く、三四郎が余命いくばくもない乙美を見舞う場面。

三四郎は枕許(まくらもと)に置かれた古びた聖書を見た。「読んで下さいな、銀杏(いちょう)の栞(しおり)が入れてあるところ」

三四郎は表示のちぎれた聖書を手に取ると、黄色い銀杏の葉が挿してある始めの方の頁(ページ)を開けて読んだ。彼は聖書を知らなかった。それでも、彼は読まねばならぬ責任を感じた。

『姿三四郎』人の巻(講談社大衆文学館シリーズ)412ページ
黒澤明監督作品「姿三四郎」の一場面 三四郎を演ずるは藤田進(東宝DVD「姿三四郎」より画面を撮影

三四郎が乙美の求めにこたえて、声に出して読んだ聖書の言葉は次の箇所でした。この小説も明治期が舞台ですから「文語訳」という古い日本語で訳された聖書ですが、ここでは現代語訳のものを引用します。

『目には目を、歯には歯を』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。もし、だれかが、あなたをしいて一マイル行かせようとするなら、その人と共に二マイル行きなさい。求める者には与え、借りようとする者を断るな。

『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか・・・。

『聖書』(日本聖書協会「口語訳」6ページ)「マタイによる福音書」5章38~46節
乙美の父親・村井半助と戦わねばならなくなる三四郎 村井を演じるのは名優・志村喬(東宝DVD「姿三四郎」より画面を撮影)

三四郎は老人に似た低いしわがれた声で読んだ。(中略)乙美がこの一節を愛読した気持ちが三四郎の胸を衝(つ)いた。憎まず、恨まず、生きてきた乙美の一番心に適った平易な一節だったのであろう。

『姿三四郎』413ページ

好きな二つの小説の主人公が偶然にも同じ名前で、しかも、どちらも聖書に縁がなくもない――まあ、はじめからそこまで狙っていたわけではないのですが、名乗ってみると結構このブログには悪くない名かもしれないと思っています。

そのサンシロウがご案内する聖書、キリスト教の世界、お付き合いいただければ幸いです。

聖書・聖書協会共同訳(日本聖書協会発行)

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